イルクーツク~チタ【捕虜支援委員会】宛

コルチャーク政権崩壊後の使用例

オーストリア ハンガリー捕虜支援委員会宛郵便

国外のオークションで入手したカバーです。

19191221日にИРКУТСКЪ(イルクーツク)で投函されて、

19191226日にЧИТА(チタ)のКомитету Помощи Абстро- Венгерскимь(オーストリア ハンガリー捕虜支援委員会)宛のカバーです。

おそらく革命軍に捕虜となったシベリアに出兵した兵士の安否確認の手紙ではないかと思われます。

ЧИТА(チタ)のКомитету Помощи Абстро- Венгерскимь(オーストリア ハンガリー捕虜支援委員会)に関する情報を持っておられます方、情報提供をお願い致します。

使用された切手(郵便料金)

使用されています切手は1917年に発行されました帝政ロシア時代の普通切手3коп・1рубльですが、3коп切手にはコルチャーク政権下で額面50копが加刷されています。

拠って、このカバーに使用されている郵便料金は1рубль50копとなり適正な料金となります。

歴史的な背景

革命軍[赤軍]の反撃により、19191112日にコルチャークと全ロシア臨時政府の閣僚たちは本拠地であるオムスクから撤退、オムスクは革命軍[赤軍]により解放されています。

1227日にイルクーツクへ撤退中のコルチャークを警護してきたチェコスロヴァキア軍部隊の保護下に拘束されました。

1920115日にコルチャーク一行の列車はイルクーツクに到着したが、イルクーツクは社会革命党 (エスエル) やメンシェヴィキの反コルチャーク勢力 「政治センター」 によって制圧されており コルチャークと全ロシア臨時政府首相 ..ペペリャーエフ の身柄はチェコスロヴァキア軍部隊から政治センターへ引き渡され収監されました。

1月21日にイルクーツク市の統治権が政治センターから軍事革命委員会[赤軍] へ移譲されており、コルチャークの身柄も軍事革命委員会の手に移されたと思われます。

2月7日にコルチャークとペペリャーエフは軍事革命委員会によってアンガラ川の畔で銃殺されました。

この郵便物がコルチャーク政権崩壊直後に使用されており、非常に興味のある収集品となっています。

詳細は不明ですが、このカバーに添付されていた鑑定書を参考までに紹介しておきます。

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