ディック・シェイパー・コレクション(№1)

セミョーノフ政権下の使用例

ディック・シェイパー・コレクションよりの入手品

前回、Thae Russian Civil War in Siberia 1917-1924オークションに付いて投稿しましたが、私が収集範囲としているロシア内戦・シベリア・極東共和国の切手等が285点も出品されたオークションでした。

出品者はディック・シェイパー氏であり「ディック・シェイパー・コレクション」の出品となっていました。

2021年4月に実施されました、このオークションでセミョーノフ政権下で発行された切手を使用したカバー等の貴重なマテリアル6点を落札しました。

偶然に入手した、このオークション誌を見るまで「ディック・シェイパー・コレクション」だとは気が付きませんでした。

出品されたマテリアルを見る限り、すごいコレクターである事は間違いないと思います。

セミョーノフ政権下の郵便物

既に投稿しましたセミョーノフ政権下で発行された切手を使用したカバーに付いて改めて紹介させて頂きます。

このカバーは、1920年7月30日にЧИТА(チタ)で投函されたХАРБИНЪ(ハルビン)宛の郵便ですが、同8月6日に届いた着印も確認できます。

1919年末頃にコルチャーク政権が革命軍[赤軍]に軍事的な敗北により崩壊後、セミョーノフは1920年10月に革命軍がチタを占領するまでシベリアの支配者として独自政権[ザバイカル臨時政権]を確立していた。

拠って、このカバーは、セミョーノフ政権下に使用された郵便となります。

使用された切手(郵便料金)

1920年7月以降のセミョーノフ支配地域の郵便料金は「封書25рубль」で「葉書10рубль」であり、帝政ロシア時代の切手にセミョーノフ政権下で「10рубльの額面が加刷」された切手2枚(ペアー)と「5рубльが加刷」された切手1枚の25рубльが使用されており、適正な郵便料金と思われます。

セミョーノフ政権崩壊後の郵便物

このカバーも既に投稿済ですが、セミョーノフ政権下の郵便との比較の為に再度、投稿します。

1921年4月21日にЧИТА(チタ)で投函されて、約4ヵ月後の8月13日にЕТРОПАВЛОВСКЪ КАМЧАТЪ(ペトロパブロフスクカムチャッカ)を経由、Czechoslovakia(チェコスロバキア)に、着印はありませんが届いた郵便と思われるカバーです。

然し、1920年10月21日に極東共和国[赤軍]に敗北、セミョーノフの政権【ザバイカル臨時政権】は崩壊しています。

拠って、セミョーノフ政権【ザバイカル政権】崩壊後の郵便物となりますが、何故に1921年4月21日にЧИТА(チタ)で投函された郵便が約4ヵ月後の8月13日にЕТРОПАВЛОВСКЪ КАМЧАТЪ(ペトロパブロフスクカムチャッカ)で中継印を押されたのか?疑問を感じていました。

1921年5月26日ウラジオストックに駐留していた日本軍の支持の基に資本家メルクーロフを首班とする軍隊とセミョーノフ軍の残党であるカッペリ兵団によるクーデターが起こり、極東共和国の沿海州政庁を打倒して、メルクーロフが反革命政権「沿アムール臨時地方政権」を樹立しています。

「この政権を白軍の旧帝政軍将軍ヂェチェリヒスが改組し反革命政権「沿アムール臨時政府」が発足しており、日本シベリア出兵軍の後援で赤軍や極東共和国[人民革命軍]と戦っていました。

反革命政権「沿アムール臨時地方政権」の反革命軍は、1922年10月25日に日本軍が撤退した事により総崩れとなり消滅しています。」

この政変が郵便物の遅延理由ではないか?と私なりに納得しています。(あくまで私見です。)

使用された切手(郵便料金)

1920年7月以降のセミョーノフ政権下での郵便料金は「封書25рубль葉書10рубль」となっており、この封書は5рубль加刷切手2枚[10рубль]が使用されています。

セミョーノフ政権下の郵便料金とすれば「葉書料金」となります。

拠って、このカバーが投函された時点では既にセミョーノフの政権は崩壊しており、適用された郵便料金が、「セミョーノフ政権下の郵便料金」が適用されたのか「極東共和国の郵便料金」が適用されているか不明です。

但、郵便料金が不足した標示はありません。

 

 

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